ワイン 百一話
ローラン・ペリエ(Part 2)
醸造工場は発酵がちょうど終わった頃合とのことでしたが、綺麗に磨き上げられた床と発酵槽がとても清潔でした。
「発酵はステンレスタンクで行なっています。それはぶどうの実が持つ”フレッシュネス”を保つには、このタンクが良いと当社のムッシュ・ノナンクールが決断したのです」 |
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動瓶はこうするのですよと |
そのこと事態には別に何も驚きませんでした。すると、「ですが、それは1973年のことでしたので当時は画期的というよりも変人扱いだったそうです・・・・」そうでした、シャンパーニュ地方ではじめてステンレスタンクが使われたのはここだったのです。ローラン・ペリエではシャルドネを重点的に使うことも特徴です。シャルドネの特徴を出すには、ステンレスタンクが良いと私たちは考えています、と説明されました。ここは、フランスのワイン造りの北限です。ブルゴーニュとは北緯が違います。太陽の恵みが少ない北の国で、如何に努力を重ねてきたかということですね。
ローラン・ペリエの起源は1812年です。桶屋で後に瓶業者となり自らも瓶詰めしてワインを売っていたアンドレ・ミッシェル・ピエルロは、マルヌの谷でワイン商を始め、その息子がエミル・ル・ロワと共同でシャンパーニュ・ル・ロワ・フィス・エ・ピエルロを設立しました。その後、醸造長でありぶどう栽培者でもあったユジェーヌ・ローランが事業を引き継ぎます。
しかし、その彼が1887年にこの世を去ったため、未亡人マチルド・エミール・ペリエが夫の事業を引き継ぎ、ハウスの名もヴーヴ・ローラン・ペリエと改めたのです。しかし、1925年にマチルド・エミール・ペリエは後継者を残さずに亡くなります。
しばらく会社は停滞状態でしたが、1939年、第二次世界大戦直前にランソン社の血を引くマリー・ルイーズ・ド・ノナンクール女史がローラン・ペリエの名前を残して買取りました。その息子が戦時中はレジスタンスの活動家として知られたベルナール・ド・ノナンクールです。彼は第二次世界大戦中にヒットラーに盗まれたフランスのワインを、当時上官であった、後のフランス大統領ド・ゴールとともに、奪還に成功したのです。
後日、ド・ゴールはローラン・ペリエのプレステージ・シャンパーニュ「グラン・シエクル(偉大なる世紀)」の名付けの親となります。
醸造所を充分に質問しながら見学しました。「動瓶はこのように二本ずつするのです」と教わりました。なるほど。