ワイン 百一話
珍陀酒(ちんとしゅ) (Part 2)
2010/07/09 PART 01 | 02| 03| 04
ポルトガルから来た赤いワインならば、ポート・ワイン(ポルト)と相場は決まっているようなものです。というのも、普通の赤ワインよりも長持ちするようにと、工夫がこらされた結果として造られたワインが、ポルトなのです。
いにしえより、酒は生活の潤いです。まして船に乗って何年も大海原で過ごす船乗りには、なくてはならない必需品です。しかし、通常のワインは傷みやすく、それに比べて蒸溜酒は長持ちします。そこで、ワインに蒸溜酒を入れて長期保存を計る方法が、考えつかれて広まりました。
通常のワインに蒸留酒を添加して造る飲み物のことを、酒精強化ワインといいます。世界的に有名な酒精強化ワインには、ポルト、シェリー、マデイラがあります。
う〜ん、そうか。信長はポルトを飲んでいたのだ。と、実は私もそう思いました。しかし、史実はそれを否定しています。
ポルトガル人が鉄砲を携えて種子島に漂着したのは、1543年です。そして、信長が安土城を造ったのは1567年すなわち十六世紀。一方、ポルトに似た飲み物が世に知られ始めたのは、一七世紀後半といわれています。
ポルトができた時のエピソードとして、次のような話が伝わっています。1678年に2人のイギリス青年が、イギリス人の口に合うポルトガルのワインを探しに来ます。そして、現在のポルト生産地であるドウロ河上流のラメゴ修道院長から、<これまでに飲んだことがない、少し甘みがあって大変にまろやかで、驚くほど飲みやすいワイン>を飲ませてもらったらしいのです。
そのワイン造りの秘訣は、<発酵中の果汁にブランデーを添加すること>と知った2人は、輸送途中の保存性を高めるために、更にブランデーを加えてイギリスに送ります。きっと、今で言うところのバカ売れしたのに違いありません。
改良の努力が続けられ、それから二百年近く経った頃に現在のポルトのスタイルが完成しています。
安土城の完成は、イギリス人がラメゴ修道院に辿り着く百年前でした。どうやら信長の口にポルトを入れる話は、少し難しいようです。
信長の頃のポルトガルでは、タンニン分の多い赤ワインが生産されていたようです。ポルトガルはワインの生産地としては、相当南に位置しますので、太陽の恵みを多く受けたぶどうは限りなく見事に黒く色付き、糖度は限りなく上ったに違いありません。そうなると、でき上がったワインは、色が濃い、タンニン分の多い、アルコール度数の高いものとなります。このようなワインは、美味しいというよりも、強いワインと感じられるものです。
一般的にワインは、タンニン分が強くアルコール度数が高いほど長持ちしますが、ワインの保存方法、運搬技術も考えに入れねばなりません。ワインの保存・運搬を容易にしたガラス瓶とコルク栓が普及したのは一八世紀です。ということは、信長の時代に船に積み込まれていたワインは、その多くが木樽に入れられていたでしょう。すると、ワインは相当酸化していたに違いありません。もっとも、当時であっても高級品は陶磁器に入れられ、厳重にロウで封をしてあったはずです。信長の口に入った赤ワインは、もちろん高級品の方でしょうが。
とはいえ、信長は、相当渋い、アルコール度数の高い、たぶん相当酸化した赤ワインを飲んでいた可能性があります。珍しい物がよほど好きだったとみえます。