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ワイン 百一話


珍陀酒(ちんとしゅ) (Part 4)

2010/07/15 PART 01 | 02| 03| 04

もうひとつの飲み物であるシャンパン(現在では正しくはシャンパーニュということになっています)ですが、これは江戸時代も後期にならないと日本に到着しそうにありません。
  シャンパーニュを発明したことで有名な修道士ドン・ペリニヨンは、ルイ一四世と全く同じ年に生まれて、同じ年に歿しています(1638-1715)。その頃に発明されたシャンパーニュとなると、船に乗ってはるばる日本に来たときには、元禄時代は(1688-1704)多分終わっていたでしょう。
  しかし、その後、長崎の出島では日本人が<泡のでる白く透明な酒>を味わっていたく感激したようです。とはいえ、ストックがなくなるくらいに所望されては、オランダ商事館でも、接待のしがいがあるとはいうものの、痛し痒しだったと推測されます。
  次は、これらのワインの流通ルートです。
  まず、火酒はオランダでの現地調達が可能と考えられます。シャンパーニュは、現在のシャンパーニュ地方で造り、マルン河を下って大西洋沿岸の港で積み換えるのが順当です。問題は、赤ワインですが、この赤ワインはどこの産出物であれば不自然でないでしょうか。
  船は、オランダのアムステルダムから、アフリカ希望峰を回ってインドを経由してマラッカ海峡を通過して日本につきます。この間にあるワイン生産地を探します。
  まず、近いところでドイツがあります。ラインガウ地方、モーゼル地方はローマ時代からのワイン生産地です。しかし、ワイン産地の北限といわれるくらいに太陽の恵みの少ない地域ですから、白ワインは出来ますが赤ワインはごく少量しか出来ません。また、赤ワインは、できてもタンニン分が少ないので長持ちしません。長い船旅に耐えられるワインにはなりません。
  ドイツの南は、フランスです。日本にまでとどくワインとしてはやはり、ここが主たると産地でしょう。船は、ボルドーの港でワインを積込めます。ブルゴーニュはどうでしょうか。昔は、ブルゴーニュのワインは旅をしないといわれていました。ピノ・ノワールから造られるブルゴーニュの赤ワインは、船に揺られながら赤道直下を通る長旅にはとても耐えられません。フランス製のワインならば、ボルドーのものしか考えられません。
  ボルドーのあとは、スペインの海岸を通ります。スペインのワイン生産地は、主としてスペインの中央から東海岸と南海岸に多く、西海岸はあまりワインの生産地として適していません。ボルドーで良質のワインが入手できるのに、わざわざスペインで買うこともないでしょう。
  スペインの海岸の次はポルトガルの海岸、それもポルトです。ポルトガル船の来航禁止との兼ね合いで、ポルトの日本国内持ち込みに抵抗がなかったのか否か、調べた範囲ではよくわかりませんが、オランダ人はきっとポルトを必要としたはずです。
  アフリカに行くと、もう熱過ぎてワイン造りには向きません。最近では南アフリカ産のワインも数多く輸入されていますが、それは現在の話です。後は、ワインを積んだ船は西インド会社を目指します。
  記録によると、江戸時代に飲まれていた赤いワインは「酸っぱいボルドー・ワイン」だったそうです。
 なぜ、ボルドー・ワインが「渋いワイン」ではなく、「酸っぱいワイン」と表現されたのでしょう。それはその昔、ボルドーワインはとても明るい色であり、軽く造られてそうです。ボルドー・ワインのことはクラレットと呼ばれますが、この名称は色合いから名づけられたものでした。ということは、当時のボルドー・ワインはタンニンが少なめだったらしいと考えられます。となると長期保存用とはいえません。長い船旅のために、疲れてしまって酸っぱくなったのでしょう。
  このようにして、江戸時代の人はヨーロッパのワイン、それもシャンパーニュやボルドー・ワインを飲んでいたのでした。



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