ワイン 百一話
聖書4(Part 4)
2010/12/14 PART 01 | 02| 03| 04
最後の晩餐
新約聖書、マタイによる福音書の第二六章には最後の晩餐の様子が書かれてあります。イエスは十二弟子と一緒に食事の席についています。いくつかのやり取りがあり、ユダがその場から立ち去ります。
《一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた。「取って食べよ、これは私のからだである」。 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みなこの杯から飲め。これは、罪の許しを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血である。あなた方に言っておく。私の父の国であなた方と共に、新しく飲むその日までは、私は今後決して、ぶどうの実からつくったものを飲むことをしない」》あまりにも有名な場面です。
この部分が精神的なバックボーンになっており、キリスト教の儀式では必ずワインが用いられています。ワインの普及は、ローマ軍とキリスト教によってもたらされた、とされている歴史的な事実も納得できます。
ところでミサに用いるワインは、バチカンが命じた規則にのっとって造られています。そのポイントは、自然に収穫されたぶどう以外の「なにものも」足してはいけないという決まりです。
なぜこのような話を持ち出したのかといいますと、その昔、ミサ用に造られたワインを飲ませてもらったことがあります。何しろ宗教に関するものですから、いささか畏れ多いというか、キリスト教徒に失礼ではないのだろうか、という気兼ねもありました。
一口飲んで驚きました。お世辞にも美味しいとは言えませんでした。そのとき飲んだものがたまたま「外れ」であったのかもしれません。いずれにせよ、その理由が「なにものも」足してはいけないことに由来するであろうことは、少し考えれば到達できる答えです。
では、ワインを造るときに、ぶどう以外に一体何を「足すことができる」のでしょうか。
まず太陽の恵みである糖分が不足しているときには砂糖を足します。捕糖という技術です。この手法は使えません。
次に、実際のワイン造りでは、収穫したぶどうが酸化しないように亜硫酸を添加します。この亜硫酸はぶどうジュースの酸化防止、ワインの酸化防止と何度も使われます。その操作がすべて禁止されてしまいます。これでは美味しいワインなど、とても造れそうにありませんね。
ですが、この世の中には例外というものも必ず存在します。有機栽培をしている醸造家の中には、捕糖はもちろんのこと、亜硫酸を全く用いないでワインを造っている人もいるのです。
それはそうと、ミサ用・ワインと楽しむためものものは別の方がよいのではないでしょうか。それが教義に反するとも思えません。