ワイン 百一話
ロマネ・コンティの歴史(Part 2)
それはそうと、歴史的にいつからあのワインがあるかくらいは知りたいものです。
今日RCと呼ばれる畑は、1131年にブルゴーニュ公ユーグII世が、シトー派のサンヴィヴァン修道院に寄進した土地の中に含まれていました。しかし、当時のあのあたりはほとんど価値のない荒地だったそうです。「RCができるとわかっていたら、やるんじゃなかった」、とユーグII世は天国で悔しがっているに違いありません。 |
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ヴォーヌ・ロマネの村と畑(この写真は丘の上にまで上がらなければ撮れません) |
その後、サンヴィヴァン修道院の修道僧がかの地を耕し、16世紀に入ってから畑の境界線がはっきりと決まり、以後畑の区画は現在まで換えられることなく続いています。
畑の区画が決まり、さらに百年以上たった17世紀中頃には、現在のRCの区画から「特によいワイン」ができることが知られはじめます。そして、ブルゴーニュ地方でワイン造りをはじめたジュリアス・シーザーを記念して、古代ローマ人のかかわりに由来した名称として「ロマネ」と名付けられたようです。
さて、いよいよかの有名な、コンティ王子VSポンパドール夫人の戦いの話です。
普通の考え方をすると、ルイ15世の寵妃で当時権勢を欲しいままにしていたポンパドール夫人に、なぜコンティ王子が抵抗できたか不思議でなりません。確かに、コンティ王子はルイ15世のいとこですが、寵妃と正面切って喧嘩できたいとこは偉い、としみじみ思います。畑の所有権を争った激しい争奪戦では、信じられない額を呈示したコンティ王子の勝利に終わり、ロマネ・コンティの名称が誕生します。
これには後日談が二つあります。一つは、王子はできたワインの全てをプライベート・リザーヴにしてしまい、王子の宴会でしか飲むことのできない特別なものにしてしまったこと。もう一つは、敗れた夫人は、当てつけにボルドーのシャトー・ラフィット・ロートシルトを手に入れ、ついでのことに宮廷からブルゴーニュ・ワインを閉め出したそうです。